人生の伏線を回収しました(1.5/5)

前回の投稿はこれです。

horite.hatenablog.com

なんか受験の話も①として入れてたけど受験の話すると俺つえー的100パー嫌な奴になるので今現在を⑥にして①を1.5として爆速で消化します!俺つえー的100パー嫌な奴を見たくない人は閲覧控をお勧めします!?

今回はテキトーに書いたので平易な語彙かも!?

目次

経歴

クリックすると開きます(長いので次回も使い回す予定です)

2013.3 徳島県立海部高等学校 卒業

2013.4 東京大学教養学部前期課程(理科Ⅰ類)入学...

2014.9 東京大学薬学部進学内定

2015.3 東京大学薬学部進学内定辞退…

2015.9 東京大学文学部思想文化学科*1美学芸術学専修課程内定

2016.4 東京大学文学部思想文化学科美学芸術学専修課程進学

2017.3 東京大学文学部思想文化学科美学芸術学専修課程中途退学

2017.4 奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科博士前期課程入学(飛び級)*2

2020.3 奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科博士前期課程中途退学

2020.4 東京大学文学部人文学科美学芸術学専修課程再入学…

2024.3 東京大学文学部人文学科美学芸術学専修課程卒業…

本投稿では主にに関してあれします。

大受験に至るまでのあれこれ

出生から藝大志望やめまで

私はかの中上健次でおなじみ和歌山県新宮市で生を享け、かの日本が実効支配している村のなかで一番面積が大きいでおなじみ奈良県吉野郡十津川村に親の仕事の都合で0歳から6歳まで居り、かのジャンボ尾崎森唯斗でおなじみ徳島県海部郡海陽町で小中高と駆け抜けたことからわかるように、基本的には辺々鄙々しているど田舎で育った人間です。

 

そんなど田舎でも辞書の類はあるもので、母親が「1歳の頃に自分の名前だけはわかるようにと思って自分の名前の書き方のローマ字の並びだけ教えたら、次の日にはローマ字を使いこなしててよく分からなかった」「2歳で広辞苑を読破するまでになっててよく分からなかった」というように神童らしかったのですが、比較対象のサンプルが少なすぎてそれが村の神童か全国の神童なのかは、周りからは判断がついておらず、東大合格した日に母親ははじめて後者の神童だったことに気付いたようです。

なんでこんな100自慢みたいなことを書いたかと言うと、仮に自分の能力(とくに知に関するようなもの、すなわち測ったら即結果がわかるようなものと違うようなもの)が突出していても、田舎に住んでいると同等の能力を有する人間が近くにいない限りそれに気づくのが自分自身はもとより親であっても遅くなり、こと知能においてはそれが顕著であるので、田舎の高知能のこどもたちにとって、インターネットが普及し尽くしている現在においてもそういう意味での情報格差はまだまだあるような気がする、と述べたかったかもしれないからです。そのため、本人の気質にもよりますが、ワガの子がなんかすごそうなんやけど!な場合は、早めに小学・中学受験をさせてみて、ただの村の神童なのかあるいは全国の神童なのかを見極め適切な進路を見定める一助にでもできるといいんじゃないかな、と思ったりもします。ただそんな必要ないかも!?

 

そんなわけで神童だったんですが作曲家になりたいンゴ〜だったので、小受中受はせず、家から一番近いという理由で名前書けば入れる高校に進学して知り合いの知り合いの音大教授に音楽理論等を習って音楽三昧だったのですが、前の投稿であるように高1冬で頓挫しました。さてどこ行こうかなとなって、うちは裕福ではなかったので*3国公立しかないかなと思い、最初は家から近い阪大か京大あたりかなーと思っていたのですが、とりあえず直近の模試で偏差値が高い大学を上から書いてみてなんとなく判断材料にするかと思い東大京大阪大あたりを並べて受けたところ、東大理3が確かB判定かC判定で、じゃあ血が無理なんで理3はないとしてとりあえず東大理1を目指しておけば行きたいところがあったときに学力は足りるだろうし、行きたいところが見つからなかったあるいは当該に行きたくなったとかであればそのまま東大理1受ければよいし、という例の保留思考からとりあえず理1を視座に入れました。

高2夏 はじめての東大模試

そこからしばらくは音楽の燃え尽き症候群的な感じで別になにもやってなかったように記憶しています。高2の夏に、とりあえず全国模試は当てにならんので大学別模試を受けて、合格点と今の学力の乖離の程度を見たいンゴとなって確か代ゼミ東大模試的なのを受けました。うちの学校は進学校でもなんでもない以上カリキュラムもなんてことなく、その時点で数学2Bすら終わりきっておらず、まだ出題範囲の5割程度しか進んでなかったので、受けた東大模試ではいわゆる「習ってないところが出た」状態で全然解けず、110/440くらいでした。当時、理1の合格最低点は毎年310/440くらいだったので、あと200点上げればいいんだという定量的な目標ができたことで、じゃあやるか、となった感じです。ただ、塾もお遊びのような塾しか近くになく、予備校なんてあるわけもなかったので、全部自分でやらないといけなかったのですが、まあ少なくとも村の神童だったことはあるわけだし、あかんかったら適当なとこ行けばいいし、じゃあやるか、となった感じです。それから前投稿で述べた感じのアレで、ちゃんと東大理1を志望するようになりました。

自習さしてクレマンス

東大理1の合格最低点を超えるための計画を立てることにしたのですが、まず自分の目の前の課題として、当時所属していた高校(以下、ウチ)のカリキュラムでは東大(というか大体の国公立)の出題範囲を習い終わるのに高3の秋までかかる、というものがありました。浪人は家の経済事情的に厳しそうな以上、高3秋から1浪で入るみたいな計画は論外だったため、じゃあ高3春の時点で仮に1浪したのと同じ状態になればなんとかなるだろう、と考えて、高2のうちに高3で習う分野も含めて全範囲をとりあえず終わらせる、というのが目下の目標となりました。

その目標の潜在的な阻礙者になりうるのがまさにウチのカリキュラムでした。これに構っている暇はないよな〜と思い、当時クラス担任をしていた数学教師に相談すると、「じゃあ俺の授業では一切無視して自習することを認めるけど、定期考査ではちゃんと赤点にならないくらいの点数は取ってくれ」「他の教科担任の先生には自分からも言っとくけど、ちゃんと相談して自習を勝ち取ってこい」と言われヤッターでした。進度の遅れが一番響きそうな数学をクリアできたのは大きかったのですが、他の教科に関しても同様の権利を得ることが必要だったので、とりあえずワイはウチでは扱いきれないので勝手にさせてくださいと頼み込む際に用いる傍証として全国模試で下から80上から99.9の高偏差値をかき集め、それと志望表を見せつつ自習させてクラメンスと歎願することで、東大入試に関係する教科のすべての担任から授業中自習の許可を得ることに成功しました。状況としてはひとまず良くなったのですが、「ここまでしたら受からんと総スカン食らうンゴねえ」というプレッシャーもあったような気があったりなかったりな気がします。

そっから参考書を買い集めて、授業中はひたすら自習し、高2が終わる頃には出題範囲のすべてを2周くらいできました。

高3

帰宅部だったので引退に関するあれやこれやもなく時間が過ぎて高3になり、夏となり、ようやく本当の意味での東大模試がやってきました。当時は駿台河合塾代ゼミのいわゆる御三家がそれぞれ夏と秋に東大模試を実施していたので、ほとんどの東大受験生にとって母集団における自分の立ち位置を把握する初めての機会が、夏の御三家の東大模試でした。しかるに、自分にとっては1年前に立てた方針が正しかったどうかを問われる場であり、ここでE判定でも取ろうもんならアーとなっていたに違いありませんがまあ杞憂で、確かA判定2つとB判定1つで、まあ問題なかろうンゴということで一安心でした。秋の御三家はA判定3つでした。

センター試験

今で言う共通テストというやつですね。1月中旬に毎年行われており、東大入試で利用することになるのは900点満点分の科目(内訳は国語200英語*4200数学100*2理系科目100*2文系科目100)で、その点数が悪いと二次試験に進めませんよ的な足切りを採用しているので、ある程度の点数の確保は必要となる試験です。自分は理系科目は物理と化学、文系科目は地理を選択しました。

センター対策をはじめたのは年が明けてからです*5。さて本番となり、ウチの高校は、受ける人全員が学校のバスで2時間ちょい掛けて徳島市にある徳島大学常三島キャンパスに向かい、近くのホテルを取って2日間をアレするみたいな日程でした。自分のクラスに国公立志望はそこそこいたのですが、なんか記念受験みたいな奴が数人茶化しのために乗ってきて嫌でした。

なんかその年は数2Bが難化したみたいな感じで、お通夜になっていた帰りのバスの中で同級生に点数を訊かれて、理系4科目満点でしたよ〜とは言えず「なんかしんどかったよね〜」とよくわからんことを言って誤魔化したのを覚えています。

確か854/900で無事足切りならずでした。

専願

センターの点数をウチの教師陣に開陳したところ、「滑り止めとして早稲田や慶應を入れておくほうがいいのでは」という助言が複数ありました。まあ尤もかもしれませんが、先述したように自分の家庭は裕福でないため私大は無理で、無理なところにわざわざ入学金を払うのは意味が分からないのと、親に一応相談したら「現役で私大よりは浪人して国立のほうが経済的に助かる」とのことだったので、東大専願でいくことにしました。あと、秋の御三家模試で軒並みA判定だったことによる驕りも少しあった気がします。

二次試験

自分にとっては二次試験が東京の地を踏む初めての機会でした。

こちらも2日に亘る試験で、自分は初日の数学でいきなり0完2半*6と終わりました。

両親と一緒に来てたのですが、1日目が終わったあとホテルの一室で、父親が買ってきてくれた弁当をつつきながら、「浪人やと思うわ」と苦笑いで伝えたのを覚えています。母親は「まあ、もう1日頑張ってこい」と励ましてくれて、父親は「お前ひとりをもう1年飼うくらいは余裕やで」と独特の慰め方をしてくれました。

来る2日目は、初日の失敗のおかげというべきか、一種吹っ切れて模試のような感じでリラックスして受けることができました。

3/10

二次試験が終わり、当時は後期入試が存在したので諦めムードで後期の準備をしつつ、でも浪人ほぼ確やしなあと思いながらRewriteをやったり大江健三郎を読んだりしてました。

合格発表の3/10、自分は合格発表者番号一覧を見たくなくて、発表時間に合わせて散歩に出ることにしました。町内をのそのそと逍遙していると母親から電話が掛かってきて、「あんた受かっとるで!」と涙声で伝えてきたので、「ほーけ」と返して、早足で家に戻りました。確かに番号があってお〜と思いました。母親はグジュグジュに泣いていて、父親の目にも光るものが認められて、浪人することにならなくて良かった、と自分も鼻をこすりました。

村の神童

恙なく入学してしばらく経った頃、入試の点数開示のハガキが下宿先に届きました。蓋を開けてみると、理1の最低点どころか理3の最低点を超えているくらいの上出来でした。爆死した数学は20点台とまあ爆死でしたが、国語が61/80とお〜な感じで、数学を除けば他の科目もまあまあ出来ていて、数学がいつも通りなら当該年度の理1合格者最高点になってもおかしくないくらいの点数で、かなり余裕をもっての合格でした。

自分は村の神童だったけど、やっぱ別に大海を知らずってわけではなく割と全国の神童だったんだな、と開示された点数を見て改めて思ったのを覚えています。ただ、浪人を回避して1年得した気分になっていたこの頃には、卒業まであと10年かかるなんてことは想像だにしていませんでした。

 

次投稿では、東大をいちど中退して大学院へ飛び級入学した頃のことを述記する予定です。

*1:現 人文学科

*2:学部3年→修士1年

*3:音大は金かかるけど大丈夫やったん?って母に最近訊いたら、「音大だったらうちらが潰れてしまうと思ってたからあんたが国公立に変えてくれって助かったわ」と言われて色々申し訳なく感じました

*4:なんかリスニングは含まないとかあった気がします

*5:といっても東大を受験するような人は形式に慣れるくらいしかしないと思います

*6:例年、大問が6個出題され、「n完答m部分的に解答」のことをn完m半と記述する慣わしがあります