人生の伏線を回収しました(1.5/5)

前回の投稿はこれです。

horite.hatenablog.com

なんか受験の話も①として入れてたけど受験の話すると俺つえー的100パー嫌な奴になるので今現在を⑥にして①を1.5として爆速で消化します!俺つえー的100パー嫌な奴を見たくない人は閲覧控をお勧めします!?

今回はテキトーに書いたので平易な語彙かも!?

目次

経歴

クリックすると開きます(長いので次回も使い回す予定です)

2013.3 徳島県立海部高等学校 卒業

2013.4 東京大学教養学部前期課程(理科Ⅰ類)入学...

2014.9 東京大学薬学部進学内定

2015.3 東京大学薬学部進学内定辞退…

2015.9 東京大学文学部思想文化学科*1美学芸術学専修課程内定

2016.4 東京大学文学部思想文化学科美学芸術学専修課程進学

2017.3 東京大学文学部思想文化学科美学芸術学専修課程中途退学

2017.4 奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科博士前期課程入学(飛び級)*2

2020.3 奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科博士前期課程中途退学

2020.4 東京大学文学部人文学科美学芸術学専修課程再入学…

2024.3 東京大学文学部人文学科美学芸術学専修課程卒業…

本投稿では主にに関してあれします。

大受験に至るまでのあれこれ

出生から藝大志望やめまで

私はかの中上健次でおなじみ和歌山県新宮市で生を享け、かの日本が実効支配している村のなかで一番面積が大きいでおなじみ奈良県吉野郡十津川村に親の仕事の都合で0歳から6歳まで居り、かのジャンボ尾崎森唯斗でおなじみ徳島県海部郡海陽町で小中高と駆け抜けたことからわかるように、基本的には辺々鄙々しているど田舎で育った人間です。

 

そんなど田舎でも辞書の類はあるもので、母親が「1歳の頃に自分の名前だけはわかるようにと思って自分の名前の書き方のローマ字の並びだけ教えたら、次の日にはローマ字を使いこなしててよく分からなかった」「2歳で広辞苑を読破するまでになっててよく分からなかった」というように神童らしかったのですが、比較対象のサンプルが少なすぎてそれが村の神童か全国の神童なのかは、周りからは判断がついておらず、東大合格した日に母親ははじめて後者の神童だったことに気付いたようです。

なんでこんな100自慢みたいなことを書いたかと言うと、仮に自分の能力(とくに知に関するようなもの、すなわち測ったら即結果がわかるようなものと違うようなもの)が突出していても、田舎に住んでいると同等の能力を有する人間が近くにいない限りそれに気づくのが自分自身はもとより親であっても遅くなり、こと知能においてはそれが顕著であるので、田舎の高知能のこどもたちにとって、インターネットが普及し尽くしている現在においてもそういう意味での情報格差はまだまだあるような気がする、と述べたかったかもしれないからです。そのため、本人の気質にもよりますが、ワガの子がなんかすごそうなんやけど!な場合は、早めに小学・中学受験をさせてみて、ただの村の神童なのかあるいは全国の神童なのかを見極め適切な進路を見定める一助にでもできるといいんじゃないかな、と思ったりもします。ただそんな必要ないかも!?

 

そんなわけで神童だったんですが作曲家になりたいンゴ〜だったので、小受中受はせず、家から一番近いという理由で名前書けば入れる高校に進学して知り合いの知り合いの音大教授に音楽理論等を習って音楽三昧だったのですが、前の投稿であるように高1冬で頓挫しました。さてどこ行こうかなとなって、うちは裕福ではなかったので*3国公立しかないかなと思い、最初は家から近い阪大か京大あたりかなーと思っていたのですが、とりあえず直近の模試で偏差値が高い大学を上から書いてみてなんとなく判断材料にするかと思い東大京大阪大あたりを並べて受けたところ、東大理3が確かB判定かC判定で、じゃあ血が無理なんで理3はないとしてとりあえず東大理1を目指しておけば行きたいところがあったときに学力は足りるだろうし、行きたいところが見つからなかったあるいは当該に行きたくなったとかであればそのまま東大理1受ければよいし、という例の保留思考からとりあえず理1を視座に入れました。

高2夏 はじめての東大模試

そこからしばらくは音楽の燃え尽き症候群的な感じで別になにもやってなかったように記憶しています。高2の夏に、とりあえず全国模試は当てにならんので大学別模試を受けて、合格点と今の学力の乖離の程度を見たいンゴとなって確か代ゼミ東大模試的なのを受けました。うちの学校は進学校でもなんでもない以上カリキュラムもなんてことなく、その時点で数学2Bすら終わりきっておらず、まだ出題範囲の5割程度しか進んでなかったので、受けた東大模試ではいわゆる「習ってないところが出た」状態で全然解けず、110/440くらいでした。当時、理1の合格最低点は毎年310/440くらいだったので、あと200点上げればいいんだという定量的な目標ができたことで、じゃあやるか、となった感じです。ただ、塾もお遊びのような塾しか近くになく、予備校なんてあるわけもなかったので、全部自分でやらないといけなかったのですが、まあ少なくとも村の神童だったことはあるわけだし、あかんかったら適当なとこ行けばいいし、じゃあやるか、となった感じです。それから前投稿で述べた感じのアレで、ちゃんと東大理1を志望するようになりました。

自習さしてクレマンス

東大理1の合格最低点を超えるための計画を立てることにしたのですが、まず自分の目の前の課題として、当時所属していた高校(以下、ウチ)のカリキュラムでは東大(というか大体の国公立)の出題範囲を習い終わるのに高3の秋までかかる、というものがありました。浪人は家の経済事情的に厳しそうな以上、高3秋から1浪で入るみたいな計画は論外だったため、じゃあ高3春の時点で仮に1浪したのと同じ状態になればなんとかなるだろう、と考えて、高2のうちに高3で習う分野も含めて全範囲をとりあえず終わらせる、というのが目下の目標となりました。

その目標の潜在的な阻礙者になりうるのがまさにウチのカリキュラムでした。これに構っている暇はないよな〜と思い、当時クラス担任をしていた数学教師に相談すると、「じゃあ俺の授業では一切無視して自習することを認めるけど、定期考査ではちゃんと赤点にならないくらいの点数は取ってくれ」「他の教科担任の先生には自分からも言っとくけど、ちゃんと相談して自習を勝ち取ってこい」と言われヤッターでした。進度の遅れが一番響きそうな数学をクリアできたのは大きかったのですが、他の教科に関しても同様の権利を得ることが必要だったので、とりあえずワイはウチでは扱いきれないので勝手にさせてくださいと頼み込む際に用いる傍証として全国模試で下から80上から99.9の高偏差値をかき集め、それと志望表を見せつつ自習させてクラメンスと歎願することで、東大入試に関係する教科のすべての担任から授業中自習の許可を得ることに成功しました。状況としてはひとまず良くなったのですが、「ここまでしたら受からんと総スカン食らうンゴねえ」というプレッシャーもあったような気があったりなかったりな気がします。

そっから参考書を買い集めて、授業中はひたすら自習し、高2が終わる頃には出題範囲のすべてを2周くらいできました。

高3

帰宅部だったので引退に関するあれやこれやもなく時間が過ぎて高3になり、夏となり、ようやく本当の意味での東大模試がやってきました。当時は駿台河合塾代ゼミのいわゆる御三家がそれぞれ夏と秋に東大模試を実施していたので、ほとんどの東大受験生にとって母集団における自分の立ち位置を把握する初めての機会が、夏の御三家の東大模試でした。しかるに、自分にとっては1年前に立てた方針が正しかったどうかを問われる場であり、ここでE判定でも取ろうもんならアーとなっていたに違いありませんがまあ杞憂で、確かA判定2つとB判定1つで、まあ問題なかろうンゴということで一安心でした。秋の御三家はA判定3つでした。

センター試験

今で言う共通テストというやつですね。1月中旬に毎年行われており、東大入試で利用することになるのは900点満点分の科目(内訳は国語200英語*4200数学100*2理系科目100*2文系科目100)で、その点数が悪いと二次試験に進めませんよ的な足切りを採用しているので、ある程度の点数の確保は必要となる試験です。自分は理系科目は物理と化学、文系科目は地理を選択しました。

センター対策をはじめたのは年が明けてからです*5。さて本番となり、ウチの高校は、受ける人全員が学校のバスで2時間ちょい掛けて徳島市にある徳島大学常三島キャンパスに向かい、近くのホテルを取って2日間をアレするみたいな日程でした。自分のクラスに国公立志望はそこそこいたのですが、なんか記念受験みたいな奴が数人茶化しのために乗ってきて嫌でした。

なんかその年は数2Bが難化したみたいな感じで、お通夜になっていた帰りのバスの中で同級生に点数を訊かれて、理系4科目満点でしたよ〜とは言えず「なんかしんどかったよね〜」とよくわからんことを言って誤魔化したのを覚えています。

確か854/900で無事足切りならずでした。

専願

センターの点数をウチの教師陣に開陳したところ、「滑り止めとして早稲田や慶應を入れておくほうがいいのでは」という助言が複数ありました。まあ尤もかもしれませんが、先述したように自分の家庭は裕福でないため私大は無理で、無理なところにわざわざ入学金を払うのは意味が分からないのと、親に一応相談したら「現役で私大よりは浪人して国立のほうが経済的に助かる」とのことだったので、東大専願でいくことにしました。あと、秋の御三家模試で軒並みA判定だったことによる驕りも少しあった気がします。

二次試験

自分にとっては二次試験が東京の地を踏む初めての機会でした。

こちらも2日に亘る試験で、自分は初日の数学でいきなり0完2半*6と終わりました。

両親と一緒に来てたのですが、1日目が終わったあとホテルの一室で、父親が買ってきてくれた弁当をつつきながら、「浪人やと思うわ」と苦笑いで伝えたのを覚えています。母親は「まあ、もう1日頑張ってこい」と励ましてくれて、父親は「お前ひとりをもう1年飼うくらいは余裕やで」と独特の慰め方をしてくれました。

来る2日目は、初日の失敗のおかげというべきか、一種吹っ切れて模試のような感じでリラックスして受けることができました。

3/10

二次試験が終わり、当時は後期入試が存在したので諦めムードで後期の準備をしつつ、でも浪人ほぼ確やしなあと思いながらRewriteをやったり大江健三郎を読んだりしてました。

合格発表の3/10、自分は合格発表者番号一覧を見たくなくて、発表時間に合わせて散歩に出ることにしました。町内をのそのそと逍遙していると母親から電話が掛かってきて、「あんた受かっとるで!」と涙声で伝えてきたので、「ほーけ」と返して、早足で家に戻りました。確かに番号があってお〜と思いました。母親はグジュグジュに泣いていて、父親の目にも光るものが認められて、浪人することにならなくて良かった、と自分も鼻をこすりました。

村の神童

恙なく入学してしばらく経った頃、入試の点数開示のハガキが下宿先に届きました。蓋を開けてみると、理1の最低点どころか理3の最低点を超えているくらいの上出来でした。爆死した数学は20点台とまあ爆死でしたが、国語が61/80とお〜な感じで、数学を除けば他の科目もまあまあ出来ていて、数学がいつも通りなら当該年度の理1合格者最高点になってもおかしくないくらいの点数で、かなり余裕をもっての合格でした。

自分は村の神童だったけど、やっぱ別に大海を知らずってわけではなく割と全国の神童だったんだな、と開示された点数を見て改めて思ったのを覚えています。ただ、浪人を回避して1年得した気分になっていたこの頃には、卒業まであと10年かかるなんてことは想像だにしていませんでした。

 

次投稿では、東大をいちど中退して大学院へ飛び級入学した頃のことを述記する予定です。

*1:現 人文学科

*2:学部3年→修士1年

*3:音大は金かかるけど大丈夫やったん?って母に最近訊いたら、「音大だったらうちらが潰れてしまうと思ってたからあんたが国公立に変えてくれって助かったわ」と言われて色々申し訳なく感じました

*4:なんかリスニングは含まないとかあった気がします

*5:といっても東大を受験するような人は形式に慣れるくらいしかしないと思います

*6:例年、大問が6個出題され、「n完答m部分的に解答」のことをn完m半と記述する慣わしがあります

人生の伏線を回収しました(1/5)

堀手と申します。シュライアマハー真帆と申します。灰原哀の名言と申します。先日人生の伏線を回収しました。

さて、私ほど世迷言のような学籍に係る事務的移動を重ねた人間は殆ど居ないように推察されますが、割と学籍に係る事務的移動に関する情報は誠藻琴に落ちていないもので、思い返すと学籍に係る事務的移動を志す際に非常に難渋した記憶がありまして、じゃあ学籍に係る事務的移動に係る情報を記述しておく体を取りつつ、掉尾卒業能わざる勿って学士(文学)に有り付けた今でこそその一端々々は檮昧愚陋であるにせよ全体として下臨すると恰も紅海が大陸の裂罅みたいですねみたいなアレの如く在っただけのものとして把捉できるようになったわけで、倨傲な閑文字を陳していくことも吝かではないのかなとか思っております。

と書いてたら存外センチになってきたので学籍に係る事務的移動を重ねた人間としての学籍に係る事務的移動に係るお役立ちTips的な内容を盛り込めるか否か甚だ怪しいように思われてきましたが、ここいらを何とか姑息するのが書き手の腕の見せ所であるとの言い伝えが存在する可能性があるので、ここいらを何とかするかもしれませんが、基本的には個々人には個々人の歴史がありみたいな感じで自分のあれこれに収斂していくよくある文章の収斂なしバージョンたるやつで換言すると自分語りに他ならないため、堀手と申しますシュライアマハー真帆と申します灰原哀の名言botと申しますで申された各々が一同に会している間隙を衝くかのように情報を私していただけますと幸甚な感じです。

目次

経歴

クリックすると開きます(長いので次回も使い回す予定です)

2013.3 徳島県立海部高等学校 卒業

2013.4 東京大学教養学部前期課程(理科Ⅰ類)入学...

2014.9 東京大学薬学部進学内定

2015.3 東京大学薬学部進学内定辞退…

2015.9 東京大学文学部思想文化学科*1美学芸術学専修課程内定

2016.4 東京大学文学部思想文化学科美学芸術学専修課程進学

2017.3 東京大学文学部思想文化学科美学芸術学専修課程中途退学

2017.4 奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科博士前期課程入学(飛び級)*2

2020.3 奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科博士前期課程中途退学

2020.4 東京大学文学部人文学科美学芸術学専修課程再入学…

2024.3 東京大学文学部人文学科美学芸術学専修課程卒業…

本投稿では主にに関して書契します。

 

進学選択(自分の頃は進学振分け)における進学内定辞退

進学選択(自分の頃は進学振分け)

東京大学には進学選択(自分の頃は進学振分け)(以下進振り)(今はどういう略称なのでしょうか?)という、入学からしばらくはみんな駒場教養学部リベラルアーツ的なやつをして単位と点数をかき集めて、2年夏くらいに行きたい学科の希望を出し、点数が高い順に希望が通ってめでたく進学したりしなかったりみたいな制度があります。基本的には点数良くて行きたいとこに行けるか点数そんなにで傍流進学するか点数やばくてどこにも引っ掛からないあるいは点数やばくて来年に望みを掛ける的なので即座に1年次に降りる(降年)かの3択ないし4択なのですが、前の2択のいずれかによってどっかに決まったとしても、2年冬から始まる進学先の講義やら何やらでなんか違うなあとなった場合に自主的に進学の取り消しを申し出て、来年度も2年次として進学選択をやりなおせる進学内定辞退という択が存在します*3

進学内定辞退を行うと自動的に留年となるうえ、申請を出せる期間が進学内定から確か3ヶ月くらいという短さのため、前者前者の場合は言うに及ばず、前者後者の場合でも結局後者後者の降年の決断はできなかったということで、それよかとりあえず進学はしといて院で行きたいとこ行くか転学部・転学科を後で検討することにする人が大多数のはずでそれが健全だと思うのですが、自分は前者前者と前者後者の合いの子のような感じで進学先を決めたのち確かアーとなって進学内定辞退と相成ってしまい、確かアーとなった理由を次拙に縷します。

アーとなった理由

1.なんも考えてなかった

というかこれに尽きます。翻せば自分は小6くらいからずっと東京藝術大学音楽学部作曲科に行きたいと思っていると思っていて小6くらいからずっと東京藝術大学音楽学部作曲科に行くための楽典やらソルフェージュやら実技やらをやっていたのですが、高1の冬頃に小6くらいからずっと東京藝術大学音楽学部作曲科に行きたいと思っていると思って師事していた作曲の先生にきみは東京藝術大学音楽学部作曲科に行きたいと思っていると思っているだけであることをおそらく見透かされて(あとうちの経済事情やら拙のピアノがヘタクソだったことも鑑みてくれたはずで)世界一の作曲家になるくらいの覚悟がないと東京藝術大学音楽学部作曲科には行かないほうがいい的なことを言われたことで確かに本当に東京藝術大学音楽学部作曲科に行きたいと思っているわけではないはずだということを自覚し、じゃあまあ普通に普通の大学行くかとなって行こうかしらとなった経緯があり、東京大学にしたのも決定を後回しにできる進振りがあったからというのが理由の3割と決定を後回しにできる進振りがあるところに行ける学力はあったのが3割*4で、理科一類にしたのも進振りで指定科類枠(理科三類から医学部医学科は行きやすいみたいなやつ)的に一番選択肢が多くなりそうだからというのが理由の2割くらい*5だっただけで、いざ進振りの段になって医学部医学科以外は余裕な程度の平均点はあったものの別にとりわけやりたいこともなかったのと、薬学科の6年と薬科学科の4年のどちらかを3年次後半までに選べるという見かけ上決定を後回しにできるような気がするけど今考えるとどう考えてもそんなわけないわけがあったのと、昔から好きだった中島らもがジャンキーでジャンキー=薬物で薬物=薬学という今考えるとどう考えてもそんなわけないわけがあったのとで薬学部に志望を出して通った、という感じでした。惟るに、東京藝術大学音楽学部作曲科に行きたいと思っていると思いつづけることを容易に抛棄するに至った時点で、私は私にとってまたは他者にとっての本当のことを本当のことと思いつづけて石を穿つ類の能力を著しく虧いていることに少なくとも気づくべきでした。

2.なんも考えてない

大体の大学生は最高学府の唯一の外延との謬識で名高い本学においても私の入学前年に某テニサーが飲酒で死亡事故を起こして私の代のオリ合宿において上(クラではなくおそらく本当に上)から「酒は御法度だぞ」と釘を刺されている状況下である上クラのひとりが酒を下クラに強要できないフラストレーションからか下級生数人を集めBINGOの用紙を千切ったあとにできる小さいプルタブのような形をした部分をゲームで負けた人が水で飲み込むというカスみたいな催しを行っていたという私が早々に本学に失望することとなったその遠因からも分かるように酒とは鞏固で緊密な関係を有しており、こと本学薬学部でもその関係といえる範疇にないといえなくはないかもしれなかったのですが、進学後の歓迎コンパ的な催しが行われたのが薬学図書館のロビーだったということにまず面を食らい、その後も同輩および先輩との(良い人たちでしたが)合わなさとで徐々になんか嫌だな~感が膨らんでいき、薬学という学問自体も自分との接点が中島らもだけという稀薄さがゆえにもとより興味があるわけではなかったため身が入らずなんか嫌だな~感は増すばかりで、2年の冬学期が始まって2週間も経たない頃でしたか、いつもの如く本郷キャンパスに向かう途中、龍岡門の手前で急に身体を動かす気力を喪い、10分ほど立ち尽くしてしまって、このままだと死んでしまうやつだ、と思って龍岡門を入ってすぐ左手に聳える保健センターの2Fの精神科受付に助けを求めたのは今でも忘れることができません。

とどのつまりその当時の自分は、人口に膾炙しておる表現を擲置するとすると、臆病な自尊心が過去の自分の選択およびその際のなんも考えてなさに帰することを許さず、そこにたまたま薬学が完全なる実学であるという辯疏の余地が存在していたことを良いことに、私は本当のことを追究したかったんだ、私が本当のことと思っていることは薬学にはなかったんだ、本当は本当のことをやりたかったのに薬学には本当のことへの追究を受け止めるだけの寛容さはない以上このままだと私の中に確かにある本当のことへの憧憬に私が殺されてしまうんだ、だから目前の舗装された道から外れて樵径を往かねばならないんだ、私はなんも考えてないのではなく全てを考えているんだ、といったことをあたかもすべて本当のことであると一種強迫観念的に思い込むことで自分の瑕疵を全て糊塗してしまうことにしたのです。

アー

それから病的な行動力で内定辞退願を教務に提出し、仮構した懊悩にしかし真剣に懊悩しているふりをしながらなんも考えずに次の年の進振りを迎えることになるわけですが、書き疲れたんでその話は次の投稿に任せ、擱きます。

*1:現 人文学科

*2:学部3年→修士1年

*3:降年とは異なるけど学生間ではあんま区別されてない、というか内定辞退のほうが圧倒的に少ないのでそもそも認知されていない気がします。

*4:あとの4割は友人の友人である2個上の先輩が徳島の別の某公立高校から現役で東大に行っててかっこいいンゴ〜となった原体験がそれです

*5:あとの2割は文系は暗記多くてしんどいから文科を外した上で結果的には合格最低点を優に超えてたので行けたのは間違いないけれども医者は血が無理で無理だろうし医者は血が無理で無理な以上不必要なリスクは取りたくなくて理三を外し理一二の2択となったのとで、あとの6割は友人の友人である2個上の先輩が徳島の別の某公立高校から現役で理科一類に行っててかっこいいンゴ〜となった原体験がそれです

あけましておめでとうございます(^^)/

2020年が終わり2021年が始まったので去年の振り返りを簡単に行ったあとに今年の抱負を簡単に行うことになるかと思うのは正確には想定される構成として思っているのであってより正確には数分前に思っていたと述するのが正しかろうなのであってその外郭にあるのはハシリドコロさんがブログを欲しているので久々にブログを捌いてみましょうかという気持ちになったことが先述の思っていたがサフィックスとなっている文字列の元兇であるような気が、しました。2020年は例の悪疫の印象がすごすぎて個々の個々に紐付く情報が紐付いた出来事を思い出そうとしても毫も思い出せないというのは過言であるにせよ毫から釐の間みたいな感じで毫と同じカテゴリかつ毫より度合いが大きい表現を惟る際、毫を筆の部位として捉えてしまうと筆の形状上穂首と前骨を経了った瞬刻を了るとたちどころに一定の度合いにこれは誤った表現であることを自覚していながら使うのであることを前置きすると収斂してしまうのが大きな問題であることは言わでもであることからすると毫を数の単位として領得するしかあるまいての差詰の釐の妥当性の欠くやはともかくで滅ぎれたのでというこれはハシリドコロさんがブログかなんかで掩蔽韜晦な文字列を並べておいたらノイズになるので丁度いいみたいな感じのなんかを言ってたので、そうしてて、去る年の一番の大喜利関連の思い出はボケクエスト4のスライムベスであり、次段は前述の話となります。無理矢理言いたいことを前提にぶっこんで展開したいことは儘あるけれどもその都度アサンプションとサポジションどっちも前提で今回はどっちやねんみたいなことが頭のなかでくるくる回るけれども今回は両岸に舫って進んでおくとすると、コンテンツには消費する際に自身に適した消費速度みたいなのがあるようで、たとえば映画やアニメだとその顕れに対してちょっと時間がかかりすぎるであるとか、もっと通り過ぎたあと残滓すら吹き飛んでどっか行ってほしいという感じがあり、大喜利も理想的には任意の回答がスッと渉り湮ぎ尽くして欲しいのであり、ツイキャス大喜利等がその消費速度を鑑みるといちばん性に合っている節がすごいけれどもそこで展開される伝達におけるこちらの可能なアクションは開陳と傾聴のみなのは良いときはすごく良いけど刹那な双方向性が現前してほしいこともあるときもあるのであるなと最近とみに間歇的に思うことを前提とした上で、これは別に前提としなくともなんとかなるけど挿入すべき血が巡っているような肌感覚でもって書くと前言の理由によって自分には特定のボケをしがむという行為を自行するのが寔に苦手極まりないので今回も2020年のしがみ記事みたいなのは性質上無理でありましたという内部に今回の記事に対する弁疏をクソ長文字列に紛らせて匵っておくとしてそれは前提ではないとしてやっていくと、スライムベスの堀さんハシリドコロさん極娘さんとの会議においては回答がサクサク綾取られ処されていく中で、拾い上げや修正といったコミュニケーションが随時乱立状態となって、特に極娘さんが矢継ぎ早に出すハシリドコロ堀堀手では寸刻では正攻法でも逆算でも捻り出せない非常に消費時間の長いすなわち価値のすごい回答がよかったり構造こねこね巫山戯タイムもよかったりCGIも丁度よかったりと本当に充実していました。スライムベスで、また集まりたい!2021年前半は仕事爆忙のなか休学解除となるので大喜利に専心した経験の可否は別として大喜利に専心できるかどうかはむつかしそ〜な感じですが、幸いWeb周りのパソコン的知識および実務は現職の御蔭様で可及的速やかになんか良いあれになりそうな直覚甚だ閦な風を感じている次第でありますので、なんかそのうちネット・大喜利界に資するなにかを一方では賑恤じゃ他方では挿架じゃみたいなそんなこんなが併呑された顕を取りつつこっそりと呈したいかなと未来の自分への過去の経験からくる尠い期待をしなしなとした袷にしつつ考えていたりします。在宅働の身なのでキャスとかめちゃくちゃやってください今年も宜しくお願いいたします。